2023年1月25日水曜日

日仏の思想の差は、どこで生まれたのか?

 王国時代のフランス史を調べています。同時代の日本の歴史と比べるといろいろ面白いので、ちょっと長くなりますがお付き合いください(時事更新は本日お休み。明日まとめてやります)。

 フランス史の最初は西暦481年頃にメロヴィング朝フランク王国建国からはじまります。
 衰退したローマ帝国を引き継ぐ形で、いろいろな制度や文化が取り込まれているが、フランク王国ならではの制度も多い。
 しかし、継承制度や官僚制度が未熟のため、メロヴィング朝は衰退し、751年にカロリング朝が始まる。しかしカロリング朝も継承制度や官僚制度に問題があり、987年にカペー朝に取って代わられる。
 衰退に衰退を重ねた結果、カペー朝はパリ周辺の土地を持つのみというところからスタート。歴代の王は長生きだったが女性問題を抱えて、わりとスキャンダラスで面白い人生を送ります。一方で、王が長生きをしたことにより、官僚機構がじょじょに充実し、領地も着々と増えていきます。
 このカペーの血筋が後のフランス国王の正当な血筋となっていきます。後のヴァロワもブルボンもカペーの血筋で、カペーをもってフランス王国がはじまったといってもいい(カペー以前はフランク王国)。

 フランス語で伯爵といえば「カウント」で、この言葉は後にカントリー(国・故郷)の語源になります。伯爵は独自の武力・財源・官僚団を持ち、その地方を統率します。これはアメリカでいうところの州知事に相当します。州知事は大統領選に大きな影響力を持ち、いざとなれば独立戦争を仕掛けるくらい大きな権限を持っていますが、フランスの伯爵はそれ以上に権限が大きく、半ば独立国となっています。
 国王が代替わりするたびに地方の伯爵が離反するので、軍事力や婚姻で引きこまないといけない。国王の寿命が長ければともかく、短いと引きこむ間もなくなり、国が衰退します。フランク王国が衰退したのは、ほぼほぼこのため。逆にカペー朝が勃興したのは歴代の王が長生きをして伯爵の離反が減ったため。王の長生きには別の効果もあり、広範囲の土地を支配するノウハウが官僚団に蓄積されていきます。
 このカントリー制度はローマ帝国から引きつがれた制度。辺境伯という言葉もあるが、これは国境線の守りにつくため、武力・財源・官僚団がやや大きめになっている。日本でいうところの北海道知事が辺境伯に相当します。北海道が県ではなく道なのは辺境伯的な意味だったんですね。

 さて、カペー朝は順調に代替わりと拡大をすすめ、1300年頃には現在のフランスに相当する領地を領有します。といっても、まだまだ穴あき状態で、各地に群雄が割拠しています。それでもカペー朝初期のパリ周辺しか領地がない状態から比べると、だいぶ違う。
 ちなみに1300年頃といえば日本では鎌倉時代末期。南北朝で後醍醐天皇がブイブイやってた頃と思うと、日仏の違いがちょっと見えてくる。
 このカペー朝末期、フランスに三部会が誕生します。貴族、商人、農民の代表者が集まり、国王に意見し、国王からは貴族、商人、農民に命令する場となります。王宮の拡大版とも、議会もどきともいえる制度です。後にイギリスでは国王を至尊の位から引きずり下ろし、議会の決定に従わせることで民主制が始まるわけですが、フランスではそこにいくまでまだまだ紆余曲折があります。具体的には断頭台とかナポレオンとか。
 では、なぜ三部会が登場したのかといえば、カペー朝の領地が増えれば増えるほど兵士や役人の数が増え、彼らを養う財源が必要になるからです。また、外国軍や反乱軍との戦争が起きた場合、国王は大量の兵士を動員しなければなりません。これがまた金がかかるのです。そして王が財源を作るには、国民に税を課さないといけません。しかし、課税された人間が納得しないと、反乱が起こります。反乱軍を倒すための課税で、新しい反乱軍ができてしまったら笑い話にもなりません。
 国王にとって、三部会は領民に課税をするとき、領民に納得してもらうための場でした。国王があまりにも重税を課すなら三部会が反乱を起こすので、王も無茶はできません。逆に、領民にとって王に現実的な量に課税を調節してもらったほうが、実際に反乱を起こすよりもダメージが少ないわけです。
 後にこの反乱が「革命」の二文字に変わるのですが、それはまだ先のこと。

 江戸時代の日本にもこういうシステムがあれば、一揆は減っていたのでしょう。しかし、士農工商という階段型の身分社会を作ってしまったために下々の意見を聞く議会のような場を聞くことが難しくなりました。これがなければ江戸幕府は三部会を開き、後には議会制民主主義まで進化できていたかもしれません。そう考えると面白いですが、閑話休題。

 そして三部会など順調にフランス支配を強化していったカペー朝は、男系の後継者が絶えたことから断絶し、傍系のヴァロワがカペーを継ぐことになります。この傍系が継ぐということがネックになり、イギリス王家が傍流よりも自分のほうが本家に近く、継ぐのにふさわしいと宣戦布告。ここに百年戦争が始まります。
 そして百年戦争でフランス王がイギリス王に拿捕される事件が発生。王太子にして国王代理のシャルル5世は膨大な身代金を払うため、フランス国内の改革を断行。三部会を強化することで封建国家から近代国家へと脱皮していきます。
 具体的には、封建国家の租税は領民が領主に払うものでした。そして最大の領土を持つものが国王となり、配下の封建領主は定められた義務として一定期間の兵役を行います。
 しかし、シャルル5世は莫大な父王の身代金を支払うため、国王として配下の封建領主の領民に直接課税する権利を三部会に要求し、手に入れます。これにより領民は領主への税と国王への税を二重に支払うことになります。シャルル5世は身代金を支払ったあとも山賊退治や戦争など国ぐるみで取り組むべき政策をかかげ、領民への税を恒久化していきます。同時に徴税をするための組織を全国規模で整備したり、国家の常備軍を作るなど税の支出先も増えていきます。

 江戸幕府が封建国家である理由は、幕府の天領に住む領民に課税はできるが、他藩の領民に課税する権利を持たないことが原因でした。幕末、全国に課税し、その金で黒船退治をする常備軍を建設することが必要と分かったものの幕府という立場や財力ではそれが出来ません。仮にやったとしたら、地方領主が反乱を起こし、一揆も大発生するでしょう。そしてそれを鎮圧する常備軍を作る金が幕府にはないのです。
 明治維新は黒船ショックを受け、維新志士が天皇を担ぎ、全国規模で課税する政府組織と常備軍を作ることが目的でした。日本には三部会が存在しないので反乱や一揆が発生するのは織り込み済み。実際に、江戸幕府やら東北諸藩やら西郷の乱やら全国規模で反乱や一揆が発生しますが政府軍はそれらを武力で鎮圧します。そして士農工商の身分制を廃止し、三部会のかわりに議会を開くことで反乱や一揆は沈静化します。閑話休題。

 さて、1300年代になるとフランスに面白い変化が出てきます。三部会により庶民が政治に参加しているという意識が広まり、ついに「国民」という概念が生まれるのです。かの有名な聖女ジャンヌ・ダルクはそのはしりです。ジャンヌには王侯貴族のような教養はありません。だから「神のために!」「村のために!」と叫ぶのが普通ですが、彼女は「神とフランスのために!」と叫びました。というのも、この頃のフランスは三部会のおかげで平民も国政に参加できたため、ナショナリズムが芽生えていたからです。
 もっともジャンヌの時代はまだ中世。ナショナリズムもまだ宗教と混じっています。ゆえにジャンヌ自身がナショナリズムに目覚めても、彼女を評価する周囲の視線は、彼女をナショナリズムに目覚めた「志士」ではなく聖女ないし魔女と捉え、宗教的な存在として火あぶりにされたのです。
 さらに時代が下り、ヴァロワ朝末期になると、宗教界に異変が生じます。新教と旧教による内ゲバです。ジャンヌのような近代的精神を持ちながら宗教的な抗争により国内が引き裂かれるところにフランス史の面白さがあります。

 そして1589年、運命のブルボン朝がはじまります。
 この時代、フランス内部の領主貴族がほぼほぼ王家の傘下にはいり、中央集権が成し遂げられています。また、三部会という身分制議会制度が成立。イギリスとの百年戦争と合わせてナショナリズムが醸成される一方、新教と旧教の抗争が激化します。
 新教と旧教の抗争は相手を殺すまでおさまらず、後のフランス革命の萌芽が見られます。そしてせっかくの中央集権ですが、これが売官によって空虚化していきます。というのも民間に官位を売る売官は手っ取り早く王家の収入になるからです。日本でも戦国時代に安房守とかの官位を朝廷が売って運営費にしていましたが似たようなことです。特に戦争のような臨時収入が必要なときには最適な方法でした。
 さて、官位の売買をするにしても、官位には限りがあります。そして官位を買った人間が官位相応の仕事をする義理はありません。そもそも官位にふさわしい教育がほどこされているわけでもない。こうして王家の権力は空虚になっていきます。それでもあきらめないのがフランス王。正式な官位の下に実務的な官位を新設し、王家から派遣した官僚が徴税などの実務を担います。こうして売官された官位が空虚化しても、フランス王はふたたび権力を取り戻すのです。

 ところがフランス王は政治の実権を取り戻すと、今度はできる部下に政治を丸投げします。時はまさにフランス王家の絶頂期。三銃士で有名なダルタニアンや宰相リシュリューが活躍する時代です。そう、リシュリューは政治を丸投げされた官僚の親玉だったわけです。
 彼らはまじめに政治をする一方で一族を要職に就けるなど私腹を肥やします。一方、フランス王家は文化事業に傾倒し、ベルサイユ宮殿などを建設。ポンパドール婦人のような寵姫がセーブルの皿やオペラを考案し、サロン発でフランス中に新しいモードを流行らせます。こうしてフランス王は政治や軍事以外に、文化的にフランスを征服していったのです。
 こうしたあれやこれやの積み重ねがあって、ついにルイ16世が運命の国王に就任。歴代の王と同じく、戦争で国庫を浪費し、税の徴収で苦しみます。すでに平民から税はとれるだけとっており、貴族や僧侶からとるしかない状態ですが、政治の有力者である官僚などは貴族や僧侶が主力です。
 通常の手段では彼らに課税できまないので、ルイ16世は平民の利用を考えます。そして長らく休会していた三部会を復活させます。ルイの思惑通り、平民は貴族や僧侶への課税に賛成します。しかし、彼らは革命思想にかぶれており、課税よりも憲法制定や立憲君主制に暴走。それがやがて血で血を洗うフランス革命となるわけです。
 革命の結果、ルイ16世はギロチンで処刑。妻や息子、縁戚も非業の運命をたどり、ここにフランス王朝はいったん幕を下ろします。いったんというのはナポレオン後に王政が復活し、生き残った係累がフランス王になるからですが、カリスマもないのに古い法制度を復活させようとダメな王様ムーブをして自滅するだけなので、ここから先は割愛します。

 フランス王朝史は徹頭徹尾、徴税がテーマでした。
 金がなければ戦争ができず、戦争ができなければ王の権威が保てない。そして大規模な戦争をするたびに統治機構が壊れたり改善されたりを繰り返し、フランス王家はパリ周辺だけの領地からやがてフランス全土を支配するまで成長します。
 そして三部会という貴族、平民、僧侶に徴税を納得させる身分制議会を発足させ、領主貴族から徴税する権利をとりあげ、徴税のための官僚制度を育てます。
 大戦争をするたびに国王の権威が強くなり、領主貴族が領地と切り離され、平民が徴税システムに関わることでフランス人に国民意識が生まれます。後にフランス国民は「議会があれば王はいらない=徴税システムこそ国家であり、王は国家ではない」ことに気づいてしまうわけです。
 この気づきが、日本人とフランス人の思想的な差なのでしょう。フランス人は徴税システムこそ国体であると気づいたから、自由・人権・博愛や民主主義なんてお題目を発明できた。自由・人権・博愛や民主主義は徴税される側の理屈です。
 逆に、日本人は徴税と、自由・人権・博愛や民主主義を別個の思想として理解しました。その結果、自由・人権・博愛や民主主義をまるで宗教のように、与えられて当たり前のものと理解してしまうことになるわけです。そして日本人は本来、選挙とは徴税システムをどうするか、どうしたいか代表者を選んで討論させるためのシステムだということもすっぱりと忘れてしまいました。自由・人権・博愛や民主主義は与えられるもので、徴税の対価として勝ち取るものではないという思想です。
 この差が日仏の国民性や思想の違いになっているのです。

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